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アヒンサーが生む平和

2011.07.21 Thursday

「非暴力、不殺生」を意味するアヒンサーという言葉は、ガンジーによってインドの解放運動の中で用いられ、その思想はこの世界の中でも広く知られています。ヨーガの世界においても、パタンジャリが示したヨーガの八支則の中において一番初めに位置づけられている、とても重要な教えの一つです。

行いをもっての暴力はもちろんのこと、言葉、そして想いの暴力さえも、他に向けられてはならないとアヒンサーの教えは説かれます。また、全ての否定的な行いや言葉、想いを肯定的なものへと、そして、暴力や憎しみを愛へと変えることでもあると人々は言います。他のものだけではなく、自分に対しても、アヒンサーは行われるべきものです。

アヒンサーを徹底する修行者が深い森の中で猛獣に出会っても、猛獣は修行僧を襲うことはしなかったという、古い言い伝えが残されています。心の中にある怒りや憎しみ、そういった感情の引き金となり得る想いさえも捨てられた時、そこでは、あらゆる敵対や暴力、否定的な想いが静かに消えていくと言います。揺るがない修行僧の非暴力・不殺生が生み出す平和な空間の中では、猛獣すらその手を出すことを止めてしまうのです。

ヨーガを行う人々と共有する空間が何にも増して穏やかであり、恐れや不安を感じないのは、きっとその磨かれた内なる平穏が生み出す雰囲気にあるのだと感じます。「平和を生み出すのはあなたです。ヨーガを行い、あなた自身が平和の源でありなさい。」そう語るスワミジの澄み切った目、その奥にある深い心と、大きな包容力。怒りや憎しみという感情を抱くだけではなく、何かを否定することすらできないその空間には、愛と優しさというものしか存在することはできない、そんな感覚に包まれたのを覚えています。

現在という瞬間の中に幸せを見出し、自分自身の考えや行動に十分に気づくというヨーガの行い、その不断の努力の中で、非暴力、不殺生は生み出されていきます。行い、言葉、想いの中で私たちが行うアヒンサーから生み出される意識が、いつしかバイブレーションのように広まり、私たち自身を取り巻く社会、そしてこの地球全体に平和をもたらすことを今日も願っています。

(文章:ひるま)

降りてきたムドラー

2011.07.21 Thursday

最初に私に個人的なムドラーが降りてきたのは2004年のことです。ヨーガの師から学んだムドラーをやり始めて12年ほど経ったころです。

当時、私はサラリーマンで少し危険を伴う仕事をしていました。その危険を伴う業務の時、気がつくと両手をいつも同じように組んでいたのです。その組み方は厳密に言うと3種類あったのですが、どの組み方をしても危険なことに遭う確率が極端に減ったことに気がついたのです。

「面白い。これはムドラーかな。」と、すぐ気がつきました。必然性のあるときに必要な行法が降りてくるという話を師にお聞きしたことがあったからです。しかしこの3種類のムドラーは、続けて行うとバランスが悪く、どうもしっくりきませんでした。しかし一つ一つは組むと気持ちがよく非常に自分に合った気がしていました。

翌年、偶然非常に美しいヒマラヤ産の美しい水晶のポイントを手にいれました。その晩睡眠中に夢の中でヒマラヤ水晶のように美しいムドラーが出てきました。そのムドラーを上記3つのムドラーの2番目と3番目の間に入れると非常にバランスが良いことに気付きました。そうして得た計4つのムドラーを遊び感覚で組んでいると、さらにもう一つムドラーが生まれました。

2006年の8月に最後のムドラーが降りてきました。この日はブータンという国において、私の今までのヨーガ修行人生でもっとも強烈な体験をしてからちょうど10年後の同じ日でした。6つのムドラーを続けて組むと信じられない位気持がよく、かつとてもパワフルに感じました。

2008年のヒマラヤ修行でヨーガの師にお見せすると、全てのムドラーについての解説をして下さった上で、「美しいムドラーだね。これは他人に伝授するものではなく、自分個人のムドラーとして使うといいよ。」というアドヴァイスをいただきました。

この修行の帰り道、一人インドに残った私は、尊敬するデリーの老占星術家を訪ねました。過去にも鑑定をしていただいていたのですが、出生図をお見せすると「ふ~む、君は最近特別な能力を得たようだな。」と言われました。その瞬間それはおそらくムドラーのことだろうと思いました。他に心当たりがなかったのです。

ごく普通の日本人である私にムドラーが降りてくるということは、どなたにも降りてくる可能性があるということだと思います。私のヨーガ講座でも時々遊びの要素を取り入れてオリジナルのムドラーを作る練習をしています。ほんの少しアドヴァイスを差し上げると、美しいムドラーが生まれたりするので、面白いです。

ただしムドラーは組んで効果がなければ意味がありません。そのようなムドラーを降ろすには、やはりある程度の修行の積み重ねと、星からのサポートが必要なのだと思います。

(文章:ガネーシャ・ギリ)

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「ガネーシャ・ギリによるインド占星術鑑定」
http://sitarama.jp/?pid=27375902

「ガネーシャ・ギリによるヨーガクラス」
http://sitarama.jp/?pid=30583238
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沈黙の行

2011.07.15 Friday

スピリチュアルな意識を高めていくための修行とも言えるヨーガの行いの中には、モウナと呼ばれる沈黙の行があります。それは、単に言葉を発しないだけではなく、自分自身の本質に出会う、大切な行いの一つであると言われています。

言葉を発しないということは、決して容易いことではありません。愛を伝えること、感謝をすること、謝ること、言い訳をすること、不満を言うこと。言葉というものは、自分の中にある思考や感情を表現するために、次々に表へと出てきます。

湧き出る感情や思考が「自分」であると、感じることは少なくありません。そして、その感情や思考が言葉となり、自分自身を重ね合わせる過程の中で、私たちは自己の本質を見失っていきます。スピリチュアルな行いの中で、それは無意識、エゴに満ちた状態であると言われています。

エゴはいつも、自分という存在が小さくなることを危惧しているために、自分を守ろうと沈黙を破り、言葉やしぐさで自分を表現することによって、自分の存在を証明し続けます。それ故、沈黙を守ることは決して容易い行いではないのです。

しかし、自己というその本質は、何があっても小さくなることはありません。大きくなることも、なくなることもありません。何かを感じる時、沈黙は、その感情や思考の正体、湧き出てくる声の主であるエゴに気づきを与えます。そして、気づきと共にある沈黙、その研ぎ澄まされた静寂の中で、いつも変わらずにある自己の本質を経験することができるのだと、モウナの行いの中では伝えられています。

「花がその存在だけで美しいように、自分を飾るために言葉は必要ありません。」自己の本質に気づくこと、そのための静寂は本当に美しいものです。

また、この社会においても、時に沈黙は大切な役割を果たします。言葉が多すぎると真実が見えなくなるように、沈黙は嘘をつくことがありません。社会の中で、沈黙を守ることはとても難しいことです。しかし、一瞬でも言葉に出ようとするその感情や思考を観察すること、その奥深くにある自己の本質に気づく少しの時間を持つことは、自分自身にも、そしてこの社会にも、シャンティな空間を生みだしてくれるに違いありません。

(文章:ひるま)

グル・プールニマー祭

2011.07.07 Thursday

インドでは、グル(師)に対しては、とても大きな尊敬が払われます。家庭にあっては親、学校にあっては先生、会社にあっては上司など、グルの指導のもと、人は大きく成長していくことができます。インドでは、グルは神と同一のものと見なしなさいといわれています。それは、太陽の光が反射して月が輝いて見えるように、グルの英知に照らされて、人々が輝きだすといわれるからです。

今月15日(金)は、グルに感謝の意を捧げるグル・プールニマー(師への満月祭)です。

グル・プールニマーの起源は、聖仙ヴィヤーサの誕生日にあたります。
聖仙ヴィヤーサは、ヴェーダ・ヴィヤーサ(ヴィヤーサは編者の意味)とも呼ばれ、ヴェーダ聖典を編纂したことで知られています。彼は、後の時代に、人々の心が醜くなり、すべてのヴェーダを学ぶ能力がなくなることを見通して、莫大なヴェーダを現在の4部(リグ、ヤジュル、サーマ、アタルヴァ)に編纂したといわれています。

さらに、彼はプラーナを記述し、物語や寓話を通じてヴェーダと同様の霊的英知をやさしく説き、それによって多くの人々がヴェーダの英知に触れることができるようになりました。また彼は、ヴェーダンタの本質をなすブラフマー・スートラの作者としても知られています。このような偉業を残したグル・ヴィヤーサを祝福するため、彼の誕生日がグル・プールニマーとして祝われることになりました[1]。

グル・プールニマーの日には、新しい誓いを立て、それを実行することが慣例的に行われています。
例えば、霊的な師がいれば、師からマントラを授かり、それを毎日唱える誓願を立てます。
あるいは毎日瞑想をする、肉食をしないなど、その他の霊的な誓願を立て、実行するのもよいでしょう。

グルの役割について、スワミ・シヴァーナンダは次のように語っています[2]
「人が成長するために、あなたはグルの重要さと神聖な意義について理解していますか。インドがいままでグルを大切にし、グルの意識の光の中で生き続けているのには理由があります。理由もなく、毎年この古くからの伝統を祝い、度々グルへ敬意を払い、信義と忠誠を再確認しているのではありません。グルは、悲しみと死の束縛から脱却させ、真理を体験させる、人々にとっての唯一の保証人なのです。」

またスワミ・シヴァーナンダは、グル・プールニマーの日に行うべきことについて次のように語っています。
「このもっとも神聖な日は、ブラフマームフルタ(午前4時)に起床しなさい。そして、グルの蓮華の御足を瞑想するのです。心の中で、彼の恩寵を祈りなさい。こうしてはじめて、あなたは成就に至ることができます。早朝には、熱心にジャパや瞑想を行いなさい。」

「沐浴したあと、グルの蓮華の御足を礼拝しなさい。また彼の絵や写真に、花やフルーツを供え、お香や樟脳を焚くのもよいでしょう。この日は、断食をするか、食べても牛乳やフルーツだけにするべきです。午後は、あなたのグルの信奉者たちと一緒になり、彼の栄光や教えについて話し合うとよいでしょう。」

「夜は、信奉者たちが集まり、神の御名やグルの栄光を歌いなさい。グルを礼拝するもっともよい方法は、彼の教えに従うことです。彼の教えの顕現としてあなた自身が輝き、彼の栄光とメッセージを伝えなさい。」

グル・プールニマーの日からは、チャトルマースとよばれる神聖な時期が4ヶ月間続き、インドではこの期間に多くのお祭りが行われます。特に2011年7月31日から2011年8月29日までの期間(地域により、満月を月の区切りとみる場合は2011年7月16日から8月13日となります)は、シュラヴァナと呼ばれ、チャトルマースの中でも特に神聖な期間とされています。
この時期は、シュラヴァナ(聞くこと)と呼ばれるように、聴聞等による学習に適した期間です。師の教えを聞き、それを実行に移せるよう努力すれば、きっと大きな実りがあることでしょう。

[1]"Guru Purnima", http://www.amritapuri.org/cultural/guru/purnima.php
[2]Subhamoy Das, "The Guru Purnima", http://hinduism.about.com/od/festivalsholidays/a/gurupurnima.htm

新しい世界へ

2011.07.07 Thursday

「振り返って神に感謝し、前を見て神を信じなさい。辺りを見回して神を感じ、自分の内側に神を探しなさい。物質社会の中にいても、決して神を見失ってはなりません。」帰国直前、あるスワミジはそう強く何度も私に言い続けました。

形のあるものへと幸せを見出すこの社会の中で、目に見えないスピリチュアルな目覚めに抵抗を持つ人は少なくありません。しかし、始まりがあれば終わりがあるように、そして、出会いがあれば別れがあるように、この世界が形を持って現れたからには、また形のないものへと戻っていきます。その変化の中で変わらずにある本質は、目には映らないものであるために、形に慣れ親しんだ人々にはなかなか受け入れがたいものであるのも当然のことです。

しかし、形を失う中で経験する悲劇や苦痛は、人々を新しい意識の変化へと導いていくと言います。世界中が祈りに包まれた大震災の後、初めて自分の生まれ育った場所へと戻る私に、スワミジは続けて言いました。「何かを失ったとしても、不幸だと思ってはいけません。神は、罰しようとしたのではなく、新しい何かを受け取ることができるよう、その手を空にしたのです。」

物や形を失うということが本質的なものを得る状態へと私たちを導いていくのであれば、禅などの素晴らしい文化を持ちながら、物質主義の社会の中でもがく私たちにとって、今この時は本質へと戻る大きなチャンスであるに違いありません。

インドでは古くから、そして今でも、スピリチュアルな指導者たちが重要視され、精神的な修行を続ける人々が多くいます。古い時代、世界中がそうであったにも関らず、現代文明の波に押され人々は本質を見失ったと、多くのヨギたちが口にしていたのを忘れることができません。

物や形を失ったことで、変わることのない「意識」というその存在に気づき始めた人々、そしてその意識、それは重要な役割を担っているのだと言います。「転機を迎えようとしている世界の中で、あなたたちの担う役目はとても大きいものです。」スワミジは最後にそう言いました。

あらゆるところに神を見ること、それは形ではない不変の存在に気づくことでもあります。見失ってはならないものは神であり、それは自分という本質的なものでもあるのだと、この度のインドでの滞在、そしてそこで見た日本から、学んだような気がしています。

(文章:ひるま)
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